雑司ヶ谷発~スマイリントーク
生まれ育った雑司ヶ谷で あぶたんが個人的な体験や昭和30年代の思い出を語ります。
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昭和30年代の子供達 東京タワー
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昭和30年代生まれの都民にとって
東京タワーは特別な存在だった。

昔、展望台の売店でタワーのプラモデルを
売っていた。
親にねだって買ってもらった。
でも自分では作れず親父に作ってもらったけど
モスラが来て壊してしまう。
俗に言う「モスラごっこ」だ。
2回は買ってくれたが3回目はなかった。

でも今でも東京タワーが大好きだ。
特にこの写真の角度から観るタワーが最高だ!
この力強さが昔から大好きだ。

スカイツリーのオープン日には日本にいれば
東京タワーに行こうと思う。

2011年大晦日
いろいろあった1年だった。

地震まっただ中での打合せ
その結果の海外進出と立上げ
iphoneの購入
素敵な出逢い
古巣の閉鎖
元部下のご懐妊

でも前は向いていたな。

この歳にしては充実してたかな。

東京タワーにパワーを貰いに行こうと思う。


都電
こないだ江戸東京博物館で
都電の展示をやってるというので
行ってきた。

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西武デパートの上から撮った
池袋の都電の停留所の写真が展示されていた。
嬉しくて懐かしくて
えらく高かったが都電の写真集を買ってしまった。

17系統が地元の路線だが
本には東池袋二丁目という電停が書いてあった。

しばらく思い出せなかったが突然蘇えった
あったあった!
豊島丘女子高の前あたりに電停があった!

ちなみに今の東池袋四丁目は「日ノ出町二丁目」

バス停の雑司ヶ谷霊園入口は
都電17系統では「大塚坂下町」だった。
フルヤ靴店の前あたりにあったっけ♪

なんか最近妙に懐かしく感じるようになった。

歳のせいか・・・





昭和30年代の子供達 十字架
パスワードを忘れかけていたくらい久しぶりです。

雑司ヶ谷霊園の中通りを歩いていくと

途中の道沿いに十字架が目立つお墓がある。

子供の頃真剣に

ドラキュラが出てきたら

ここまで逃げることに決めていた。

予行演習もやったかもしれない・・・・


昭和30年代の子供達 歩く子供達
小学生の頃
渋谷から歩いた明治通り沿いに
児童館があった。

当時としてはかなり大きな立派な建物で
明治通りを原宿方面に歩いた右側の
少し高いところにあった。

雑司が谷の小学生の間で大手町の逓信博物館と共に
ちょっとしたブームになって
4~5人が集まっては良くでかけた。

ある時いつものように児童館へでかけ
忘れもしない館内の映画の上映ルームで
ジャングル大帝を視た日だった。

1人の奴が歩いて帰ろうぜと言い出した。

目白から山手線で渋谷まで行った帰りの話だ。
なんかノリでみんなそろって「そうしよう!」と
いうことになった。

そこから明治通りを池袋に向かって歩き出した。
原宿(当時の子供は判らないしそんなに賑やかではなかった)
を通りテクテクと歩いた。
やがて新宿へ 新宿の伊勢丹は知っていた。
この辺は当時の明治通りでは最も賑やかなところだった。

高田馬場を過ぎてやがて橋のたもとの不発弾にさしかかり
やっと地元近くに帰ってきた。
*昭和40年代くらいまで不発弾が橋の脇に立てられていた。

それを過ぎれば千登世橋だ。
脇の階段を上って目白通りから鬼子母神参道に入って
高田小学校に辿り着く。

だれも時計を持っていなかったのでどのくらい
時間がかかったかは判らない。

でもずっとしゃべりながら歩いていたのを憶えている。
疲れた記憶も無い。

当時の子供は外で駆けずり回って遊んでいたので
体力はあったのかも知れない。

でも子供同士で結構遠くまで遊びに行ったりした
今思えば逞しい子供達の時代だったのかもしれない。

その他にも自分は上野のボーイスカウトに毎週行っていた。

都電 都バス 山手線 地下鉄丸の内線を乗りこなして
歩き回っていた
東京雑司が谷の昭和30年代の子供達だった。



昭和30年代の子供達 アトムシール
小学校の何年生だったか忘れたが
その頃からマーブルチョコレートがあった。

上原ゆかりがCMをやっていた当時の話だ。

マーブルチョコレートを買うと中に
鉄腕アトムのシール「アトムシール」が
もれなく入っていた。

あのアトムがシールになっているなんて
画期的な出来事だった。

シールが欲しいのだがたくさん買うには
子供達には値段が高い!

ほそぼそとシールを増やしていったが
なかなか増えなかった。

そんな時、同級生の1人がなぜか大量に
アトムシールを持っていた。
どうやら親父の仕事の関係で入手できたらしい。

そいつの家に遊びにいくと
あるわあるわ
山ほど束でアトムシールを見せびらかしやがった。

「でも欲しい!」

交渉が始まった。

大人のビジネスのような交渉結果は
物々交換で決着した。

その頃フーセンガムを買って当たりがあると
プロ野球の球団旗の今で言うストラップのような物がもらえた。
ガムを買いまくって12球団全てを集めて宝物にしていた。

奴はそれを狙ってやがった。
マーブルチョコに入っているシールの10枚分くらいのシートを
交渉の道具に使われ、欲しいという欲求に負けてしまい
12球団全てを手放してシートを何枚かとチョコに入っている
シールをゲットしたのだが・・・。

自分の持ち物や家の窓ガラス等あちこちに貼りまくったが
おふくろが激怒してぶちはたかれた後に全部剥されてしまった。

そして何も残らなかった。


お会式復活!
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去年はリハビリで出られなかったが

今回はお穴の鬼子母神で観ていたら

どうしても出たくなって

明治通りで合流してかみさんと参加!

やっぱりお会式最高!

40年近く前 バイク(ダックスホンダ)で

お会式の鬼子母神に昼間入っちゃって

メチャクチャ怒られたっけ

若気の至りの思い出だ

昭和30年代の子供達 くるま
昭和30年代 少年漫画週刊誌には
よく21世紀の未来の想像図が特集されていた。

機能満載の大きいビルとか
それをつなぐパイプの通路とか
みんなが乗れる宇宙ロケットとか
いろいろあった。

その中でも強烈な印象は車だった。
車はみんなエアカーで空を飛んでいた。
原子力が動力の車もあった。

当時の画期的な車がこれだ・・・
スバル360 歴史に残る名車だ
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そんな時代に車が空を飛ぶって
夢が広がり小4の時の文集に
未来をテーマに作文を書いて
「くるまはみんなエアカーになっているだろう」と
大真面目に書いた覚えがある。

実は数日前去年の4月に全とっかえした
愛車の夏タイヤがパンクした。
この1年で3本目だ。
すでに2本は致命的なパンクで
高いタイヤに取り替えてある。

息も絶え絶えにジャッキアップして
スペアタイヤに替えている時思った。

「エアカーならこんな苦労は無かったのに!」

21世紀とはいえ昭和のアナログ世代の生活は
さほど変わっていない気がする。

当分、くるまは空を飛ばないだろう。
バックトゥーザフューチャーでは2015年には
飛んでいたのに・・・・・。

だから飛ばないけど
一番未来的なプリウスを買った。

昭和30年代の子供達 池袋の食堂その三 不二家
池袋パルコが丸物という名のデパートだった頃
中2階に不二家があった。

不二家があった頃の丸物デパート
山中利明氏撮影
画像16b

当時の子供達には夢のごちそう

♪ホットケーキ が食べられた。

見たことも無い、おいしい香のパンケーキに
バターを塗って
たっぷりとシロップをかける
夢の世界に入り込んだようなごちそうだった!


♪ホットドック が食べられた。

ソーセージといえば魚肉か赤いウインナの時代に
でっかいソーセージがパンにはさまれたホットドックは
不二家でしか食べられかった。
夢が現実になったようなとんでもないご馳走だった。

アメリカの子供は普通にこんなすごい物が食べられるのを
テレビの「パパはなんでも知っている」や
「うちのパパは世界一」を見て知った。

以来、アメリカが大好きだ。


池袋の食堂番外編 コンパフジキ
こないだTVの「モヤさま」で
江古田にあるコンパ江古田とかいうお店がでていた。

昭和40年代後半我々が使っていた
「コンパ」という言葉は二つ意味があった。
一つが学生が集まる飲み会
もう一つはちょっと良いムードのカウンターのみがたくさんあって学生でも気楽にいけるリーズナブルな価格の飲み屋を言った。
当時としては結構おしゃれでデートには最適だった。

思えばウチの奥さんとの最初のデートが
池袋東口の「フジキ」だった。
今のサンシャイン通りのロッテリアの向かいがフジキビルでその2階がコンパになっていた。
御徒町の行きつけのテニス用品屋で奥さんのラケットを買ってから地元池袋に移動してフジキに行った。

せいぜい飲むのはジンフィズとかそんなので
つまみはデートの時は奮発してハンバーグなんかが多かった。
鉄板の上でジュージューいいながら出てくるハンバーグでちょっとリッチな気分になった。
男同士だとポテチくらいだったかな。

バーテンさんが何人もカウンターの中にいて
カクテルとか作ってくれた。

結構、気楽でいいムードの店だったので
学生時代は良く入ったものだ。

コンパという飲み屋は
ある時期からばったり見なくなったが
江古田に残っていたのをTVで見て
懐かしくて書きたくなったので
池袋の食堂番外編でご紹介した。




昭和30年代の子供達 池袋の食堂そのニ 三越
今はLabi1になっていて三越の閉店時には
どうなっていたか判らないが
昭和30年代、三越の最上階(7F?)に
大きな食堂があった。

でっかいショーケースにメニューが
ズラッと並んでいて目移りしながら
子供心にかなりハイテンションに
なっていた記憶がある。

ここでは今でも大好物の
エビフライばかり喰っていたと思う。
結構ぜいたくな子供だった。

親が食券を買ってテーブルへ
紺の制服に白いエプロンのおねえさんが
やってきて「もぎり」をする。
食券を片手でパキッと半分に切り取って
半券をテーブルに置く
とてもかっこ良くって玩具の食券でマネをした。

テーブルの上にはトレー(アルマイト製)の上に
湯呑が山積みにされ脇にお茶の入った大きい
急須があって自分でついでいた。
子供には茶は飲まないせいか
水を持ってきてくれていたようだ。

窓際の席からは
向かいの丸物(現在はパルコ)と並んだ向こうに
西武デパートがずっと続いていた。
北口に向かうガードの入り口が見える。
当時はそこで暮らしている人が多く
しゃがみこんでポテトサラダを食べている
男の人が妙に記憶に残っている。
親からは「汚いから行っちゃダメ!」と言われていた。

子供の頃の記憶は大げさなものも多いが
とにかく広い食堂だった。

もぎりのおねえさん、見てみたい。